私たちは日常にある「しあわせ」に気付きにくい生き物だから。目を逸らさずに生きていきたい。
数年ぶりに、夏祭りに行きました。
すごく蒸し暑つくて1時間くらいで帰るつもりだったのですが、コロナの影響でお祭りをあまり知らない次男が「あれもしたい、これもしたい」と言うのを聞いてあげていたら(しかも、めっちゃ長蛇の列…)、汗だくになって2時間くらいあっという間に過ぎていましたよ。
すぐ帰ると言いつつ、パートナーがビールを買ってきてくれたので美味しくいただく笑
はじめてのヨーヨー釣りで2つゲット
はじめての射的に
はじめてのスマートボール
今日さっそく絵日記にお祭りのことを書いていましたよ。
夏休み最後に、楽しい思い出ができたみたいでよかった^^
あのね。私たちは、日常にある「しあわせ」に、気付きにくい生き物なのかもしれません。
それが当たり前にありすぎると有り難みがわからなくなって、「むしろ無くてもいい」とさえ思ってしまったりして。
だけど、その「日常の当たり前」が突然無くなったり、突然動かなくなったりしたときに「やっぱり、いる!絶対!!!」と、その価値に気づくの。
当たり前が当たり前なんかじゃなくて
自ら大切にしなければいけないものだった、と。
後から気づくのですよね。
今回、私たち家族はお盆前にコロナになって、喉の激痛と熱と咳と強烈なダルさによって動けない状態が続いたのですが、そのお陰なのか、小さなお祭りに皆んなで行けたこととか、めっちゃ暑いけど次男が喜んでくれるならそれでいいか、とか。
自ら大切にしなければいけないものがすごくクリアになりました。
もしコロナになっていなかったら。
別にお祭り行かなくてもいいんじゃない?とか、ママは行かないからパパと二人で行ってきなよ、って言ってたかもしれない。
次男が喜んでくれるならそれでいいか、という思いよりも「私が行きたくないんだから行く必要もないでしょ。暑いんだし、そもそも行くなんて言わないでよ」とまで思っていたかもしれない。
だけどコロナになって健康とか家族の有り難みが薄く、私の中で遠いものになったからこそ「やっぱり、いる!絶対!!!」が私の魂の叫びとして発動したの。
本当に大切なものを忘れちゃダメだよ!と。
私が目を逸らしたくない「望む愛の世界」を、思い出させてくれたのだと思うのです。
大袈裟?
うんん。
全然大袈裟じゃない。
日常に埋もれると、どうしても忘れがちになることだから。
きっと「すごく大切なこと」なんじゃないかな。
だけど「自分の望む愛の世界」を忘れてしまっても大丈夫。
ちゃんと思い出させてくれる出来事はあるし、その時、その時で、しっかりと「わたしの幸せはここにあったんだ!」って思い出せばいいだけ。
自分の幸せから目を逸らさなければ、それで大丈夫ですよね^^
空が青くて嬉しいことも、日常に埋れさせないでおこうと思う。
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